お客さーん
2012年 10月 18日
譬へば、蕨折りなどは、あの文句から女の所作を觀照するだけの能力がなければ面白くない筈だ。如何に演ずる人が主要なものだといつて繰り返しても、見る人が訣らなければ續かなかつたらう。津輕領・南部領の人達にも、あれを觀照する能力があつたと見なければならぬ。
折口信夫(1976)
「根子の番樂・金砂の田樂」
〔昭和10年11・12月「日本民俗」第四・五號〕
『折口信夫全集 第十七巻 藝能史編1』
中央公論社(中公文庫) p.397
つまり舞をまふことは、神に背かないといふことを前提としての行為なのですから、そこにはほんたうの見物人はあり得ないのです。後に發達して來た盆踊りを考へてみても、或は現在行はれる畿内近邊の湯立て神樂でも、東京近邊の里神樂でも、東北の山伏神樂でも、出雲・九州の神代神樂でも、いづれもほんたうの意味の見物人はありません。
折口信夫(1976)
「日本藝能史六講」〔昭和19年〕
『折口信夫全集 第十八巻 藝能史編2』
中央公論社(中公文庫) p.351
・・・どっちなの。
by げんぞう
折口信夫(1976)
「根子の番樂・金砂の田樂」
〔昭和10年11・12月「日本民俗」第四・五號〕
『折口信夫全集 第十七巻 藝能史編1』
中央公論社(中公文庫) p.397
つまり舞をまふことは、神に背かないといふことを前提としての行為なのですから、そこにはほんたうの見物人はあり得ないのです。後に發達して來た盆踊りを考へてみても、或は現在行はれる畿内近邊の湯立て神樂でも、東京近邊の里神樂でも、東北の山伏神樂でも、出雲・九州の神代神樂でも、いづれもほんたうの意味の見物人はありません。
折口信夫(1976)
「日本藝能史六講」〔昭和19年〕
『折口信夫全集 第十八巻 藝能史編2』
中央公論社(中公文庫) p.351
・・・どっちなの。

by げんぞう
by torira | 2012-10-18 21:40 | 資料紹介 | Comments(0)

