ヨメに行く事について

伯母は今、86才。いちおう看護士の資格を持っている。
二十歳の頃軽い結核で自宅療養しているところへ、昭和20年の春、戦時救護班へ参加するべしとの招集が来た。
行き先は広島県の大野陸軍病院。
ここから先は想像が付くかと思いますが、8月6日、ピカっと来てドンとなって、まもなく爆心地から20キロのその病院にも患者がどんどん運び込まれてきた。
病床はすぐに埋まり床に寝かせるほかなく、自分たちも隣の寮までもどるヒマさえなくて、着の身着のままで廊下に寝たという。
薬も無くただただ赤チン(わかる年代の方にはわかる万能外用薬)を塗るだけだった。患者さんの眼窩に大量の蛆がわいて菊の花のようだった、というエピソードがおそろしい。
さらに9月17日には台風による山津波が来て、患者も医療従事者も原爆被災調査班員も多数亡くなった。

伯母がこういう話をするようになったのは、彼女が50代になってからだと思う。
それ以降、当時のことを書いたり、何度か学校に招かれて子供たちに体験を話して聞かせたりするようになった。
自分の体験記と井伏鱒二の「黒い雨」を私にくれて、読め、と言ったのも同じ頃かな。それまでは伯母が2次被爆したことは知っていたが、本人から具体的な話を聞くことはなかった。

先日、映画「黒い雨」をいっしょに見た友人が「とにかく嫁に行くことが重要な時代だったのね」としみじみ言った。それは私も感じたこと。
黒い雨を浴びた娘には縁談がまとまらない。破談になる度に傷つくスーちゃん。スーちゃんは安全な娘なんだと強調してまわる北村和夫扮する叔父さん。
今や「そんな時代だったのね」ではすまない時代の渦中にいる私たち。

独身を通した伯母に、先日思い切って聞いてみた。被爆したことと関係があった?
伯母は子供のように口をとがらせてぶっきらぼうに「いや。だってヒロシマにいたこと、誰にも言わなかったもん」とそっぽを向いた。言えなかったんだね。

その後、伯母の同僚だった方々には早世されたりお子さんの健康で悩んだりした方が多数いらっしゃった。伯母はだるさや貧血に長い間なやまされたりはしたが、憎まれ口を叩きながら2011年8月15日もなんとか生きている。

 by.事務局MA
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遠野市で見かけたトウロ木。仏さんがお盆に家に帰ってくるときの目印だそうだ
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by torira | 2011-08-15 21:54 | お役立ち情報 | Comments(0)

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